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2018年10月12日 (金)

10月12日号 錦州について

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  緑色で縁取られた地域が錦州省
  その下の三角に突き出た地域が遼東半島




 73年前、日本人は難民になった。
そして錦州省の葫蘆島から日本に引き揚げたのだ。
その数、105万1047人。

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 錦州のランドマーク 古塔

▼ 錦州のソ連軍
 ソ連軍が満州に侵攻したのは8月9日からだが、
錦州にやってきたのは8月21日頃からだ。
8月末という証言もある。
ともかく、北満とは異なり、タイムラグがあった。
在満日本人は各地で居留民会を作り、
自分たちを守ろうとした。
以下は、当時錦州在住邦人の証言。

① 錦州市内にソ連軍本部が初めて進駐したのは
8月31日であり、続いて同日夕刻
八路軍が入城した。
その後数日間は昼夜連続、
全市内にわたって
組織的暴徒の襲撃掠奪が繰り返されて、
日本人居住区域のほぼ過半が
その災厄を蒙り、
家財一切と家を失った者は
着のみ着のまま知友を頼って転々せねばならず、
窮状は一層深刻化した。

② 市内にソ連の戦車部隊が入城したのは、
8月31日であった。
該部隊はシベリヤの
流刑者を主として編成されたという
「刺青部隊」で
顔は陽に焼けて精悍、
中には老兵もおり遠征の疲労の色が
見受けられたが、
同兵士の暴行・掠奪・強姦は
巷間噂に上っており、
その対策には頭を悩ました。
 婦女子には丸坊主を奨め、
二階の天井裏や物置を隠れ場所とし、
大勢の男性が監視するよう手配すると共に
亭の門と周囲に板塀を張り巡らす等したが、
料亭という場所柄、
夜陰中国人の案内で門を叩く兵士に
マンドリン(自動小銃)で威嚇されて
抗し切れず侵入されること度々であった。
 
③ 進駐間もなく、男は、
市内工場の機械を
ソ連に送る貨車積作業に狩出され、
それが度重なった。
夜になると私達の集団へも
兵隊が押しかけて来た。
自動小銃をつきつけて「時計、時計」と連呼して
掠奪をほしいままにした。
止なく時計を与えて後難をのがれた。
当時ソ連の田舎では、
時計一個で一年は暮らせるといわれた程で、
ソ連の物資の欠乏や
人民の貧富・教養の差は甚だしく、
下層民は世界一といってもよい程、
低い生活をしていた。
時計の扱い方も知らない者が多く、
掠奪した時計を五つも十も腕にまきつけ、
ちょっと動かなくなるのは次々に捨てて、
また新たに欲ばっていったとのことだった。
当時こんな笑えないエピソードがあった。
進駐早々のこと、現住民の悪い奴が、
葬式に使う偽札でソ連兵の所持品を交換した
という話があり、
囚人部隊であっただけに、
それほど無智であったことを知ることが出来る。
 「女を出せ」との要求が
私達の集団にも来た。
どうして娘達を守るか、そんな時、
以前水商売の女の方達が
「素人は可愛想だ、私達で守りましょう」と
止むを得ず応じて行ってくれたのには、
全く頭が下った。


 蝗の群れにも似たソ連軍は、
11月5日、邦人拘留者二百余名を連行し
瀋陽方面に撤退していった。


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 旧満鉄病院

▼ 錦州の八路軍
 八路軍とは、毛沢東率いる共産軍のこと。
 八路軍はソ連軍侵攻の後
8月25日から31日にかけて
錦州に進駐してきた。
以下は、当時錦州在住邦人の証言。

① 八路軍は軍紀が厳正で
街の要所要所に駐屯する彼等の中に
以前私の身辺にいた顔見知りの者が、
今、軍の幹部になっており、
温い目で迎えてくれた善意を幾度も経験し、
私たちを勇気づけてくれた。
(先乗りの工作員がいたわけだ)

② ソ連軍に代って
共産八路軍が錦州に入って来た。
その軍規は正しかった。
縫物等の仕事を持込んでくれた。
治安も小康を得て、
たばこ巻・繁華街への露店商売など
生活のための色々な努力が始まった。
子供達のたばこ売りや物売りが始まったのも、
この頃であった。
…八路軍政下にあった頃、
それに亡命していた日本人の共産党の幹部
(特に名を秘す)が錦州に来たので、
日本人の引揚を要請したところ
「侵略した日本人はもっと苦しむべきだ」
とはねつけられたことを思い出す。
当時の錦州在住日本人は、恐らく
引揚後も共産党に大きい反感を抱いたことであろう。
その根強い感情は
右の時に出来上ったものである。

③ 何より困ったことは、
入れ替り進駐してくるソ連軍や中央軍が、
婦女子を要求することでした。
それをはぐらかすために、
徹夜で酒の接待をして、彼等を酔いつぶし、
翌朝の部隊の出発まで
時間稼ぎをしたこともありました。
毒味をさせるため、
胸元にピストルを突きつけられたり、
スターリンのためにと
乾杯を強いられた苦杯の味は、
今だに忘れられません。
八路軍だけは、女性の要求をしませんでした。
軍紀の上では、
中共軍は当時既に中央軍に勝っておりました。


 11月25日までに、八路軍は錦州を撤退した。
中央軍=蒋介石の国民政府軍との内戦を
避けるためらしい。
 撤退する前、
錦州の元幹部二人を処刑し、
市内の鉄橋や電話局などインフラを放火破壊した。
また、技術者、医師、看護婦250名余を連行した。


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 再開発が進む錦州・民和街

▼ 錦州の中央軍(=国民党軍)
 八路軍と入れ替わりに錦州を支配した。
 彼らも入城当初、日本人を圧迫したが、
幹部は中日親善を希望し、邦人に同情的だった。
以下は、当時錦州在住邦人の証言。

① 国民党の責任者と
(日本人居留民)民会幹部との
話合いの場が持たれた。
その席上
「この度の戦争で中国は
アメリカ等の援助を得て日本に勝った。
その結果日本は三等国となり、
中国は一等国ということに成った。
しかし日本民族はあくまでも一等民族である。
この敗戦に挫けることなく、
あなた達は誇りを堅持し、
中国と手を取り合って発展してもらいたい」
と勝者側としては珍らしい謙虚な発言があった。
中共軍にせよ、重慶軍にせよ、
中国人の襟度の広さには全く一目を置いた。

② 蒋介石総統は
「仇に報ゆるに徳を以ってす」と
あの有名な声明を出したが、
国民に対するゼスチュアもあって、
満洲国関係についても、
日本帝国主義侵略の先鋒と見做される
日系首脳官吏・日本軍憲兵等の逮捕を、
中央軍糾偵隊に命令したようである。
 抑々中国から見れば、
満洲国は承認しない「偽国家」「傀儡国家」であり
満洲国のすべてが非合法であり、
満洲国に参加したすべての官吏を
違法行為の戦犯者と見做したのである。
 錦州には国民党軍の進駐が最も早く、
20年11月であったので
戦犯容疑の逮捕者も比較的多数に上った。
当時11月初め頃までに、
ソ連軍は官吏の上層部、
協和会、警察官、旧軍人、民間人を
既に数百名も検挙連行していたので、
中央軍糾偵隊の検挙は、
さらに広くそれ以外の人達に
累を及ぼしたのである。

③ 特筆すべきことは、
八路軍(今の中国軍)
国民政府軍(今の台湾軍)や
ソ連軍の中から
私どもの診療所を訪れる患者が
日を追って増加したことである。
勿論日本の医療技術の
レベルの高い証拠である。
八路軍の兵隊は訓練中の外傷が多かったが、
彼等の中には性病治療に来る者がかなりいた。
私は八路軍の兵隊から
患者用の小さい方の椅子に
腰掛けさせられて
彼等を治療したことがしばしばあった。
日本は負けたんだから
小さい方に坐れというのだから
まったくユーモラスだ。
治療費は持っていれば支払う
というのが八路軍で、
国府軍の将兵は皆きちんと払って帰った。
…ソ連の兵隊は最もずうずうしく、
治療を受けるのは当然だという態度で、
勿論治療費は支払わずに立ち去った。


 それぞれの気風が垣間見え、面白い。
この中央軍統制下の錦州に満州各地から
日本人難民が集まり、
錦州近郊の葫蘆島より、
日本へ引き揚げていった。
 錦州にたどり着く前に、
たどり着いた直後に、
そして葫蘆島の収容所で亡くなった邦人も
多数おられた。

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 錦州民和街の旧家

▼ 錦州の日本人 
 皆、非常な苦労をした。
その明日をも知れぬ日々に、
いろいろな人間模様が織りなされた。
以下もまた、当時錦州在住邦人の証言。

① 飛行場には既に
熱河方面から来た日本軍が
一万人近くも収容されており、
中には軍服男装の看護婦達も居た。
民間人もいた。
 本部には中佐がいてソ連側と接触し、
部隊の直接指揮は大尉があたっていた。
翌日から兵隊は総がかりで
広い飛行場の周囲に
鉄条網の架設作業を始めた。
 日本軍は武装しないだけで
元のままの体制で、
起床点呼・就寝点呼まで励行させていた。
 軍隊生活にまったく経験のない私には
奇異に感ずることが多かった。
佐官が五人いて佐官室に陣取って
朝から晩まで碁を打っていたが、
当番兵が二人ずつ付いており、
学徒出陣らしい若い少尉にまで
将校にはすべて一名の当番がいて、
食事、洗濯、靴磨き等一切をやらせていた。
夜になると将校達はスキヤキを喰うが
当番兵には一片も食べさせない。
経理部長というのがいて、
佐官連中には煙草・甘味料・肉・魚・被服等
思いのままに配給していた。
 終戦後ではあるが
職業軍人の殿様のような生活ぶりを窺い知った。

② 「戦時中男子は
特攻隊になってお国のために働いた。
敗戦後日本人婦女子が危険に曝されているとき、
お気の毒で、申訳なく、
まことに我がままな申し分であるが、
ソ連軍に対する女子挺身隊になって、
一般婦女子を護って下さらぬか」
と懇請した。
彼女達には女傑的な俠気があったのだろう。
承諾して協力を約してもらった。
このようにして、あちこちから集って、
日本亭・錦城館・水月等に居ったことのある
梅丸・時丸・国丸・鈴丸その他十五名ばかりになった。
宿舎を国兵会館に決め、
集合してもらったのは九月十日頃のことであろう。
 女子だけを置く訳にはゆかぬので、
鯨岡・石原・内山・私などが交替で世話役兼
護衛係になった。
会館内部の改装間仕切り、
衣類・寝具・化粧品から給食の手配、
食料品の入手にてんてこ舞をする最中、
あちこちから出張サービスの要請が舞いこむ有様で、
出張のときは男子が護衛につき、
終るまで待って又連れ戻さねばならない。
今から思うと、
軍人であった男一匹が何故
こうしたことを引受けたか自らを怪しむが、
しかし恥ずべき行為であったろうか。
挺身隊の婦人たちも気の毒な程に忙しく、
一日に何回も、
何人ものソ連兵を相手にせねばならなかった。
詳しいことは到底これを書くに忍びない。
 或る夜十一時頃
国兵会館から民会にいた私に電話があって、
婦人の一人が急病であることを伝えて来た。
駈けつけてみると国丸であった。
私が背負い、真夜中のこととて
二三人で護衛して
民会の診療所に連れて行く途中、
ソ連兵に誰何された。
夜間の外出は一切厳禁されていたからである。
近づいて自動小銃を突きつけたのは
前に民会にも来たことのある兵隊であったので、
却って一緒に民会まで同行してくれた。
国丸の病気は急性盲腸炎で、
即刻手術して生命の別条はなく済ませた。
 やがて一般婦女子の被害も激減した。
民会の女子挺身隊や、
その他にもあった女子達の
犠牲的行動によって
救われたことが最大の原因であるが、
ソ連軍の当初の悪質な部隊が
交替したこともあり、
ゲ・ぺ・ウの取締りも
逐次徹底して来たからであった。
 あの終戦とソ連軍の暴虐を憶い、
一般日本人婦女子のために
防波堤になってくれた
これら婦人の身の上に到るとき、
あの時あれだけみんなから感謝されながら、
時の流れと共に忘却され、
自他ともに故意に無視埋没させて
語らぬ悲哀の運命に、長嘆憐憫を禁じ得ない。

③ 邦人で武器の隠匿や
阿片・金銭問題を中共軍や
国府軍に密告する者が少なからず、
そのため取調べや
投獄の浮き目に遭った者が多く出て
敗戦国民の恥部を露呈したことは
まことに残念であった。

④ 錦県(=錦州)の我が家
……小綺麗で目立つ家並みは
侵入してきた八路軍に接収された。
彼等にとっては屋根があるだけで驚きだ。
別世界だ。
山猿か? 人間か? 判別迷う兵隊達である。
が、八路軍の規律は徹底していた。
民衆には手を出さない。
 十七歳そこそこの童顔イコール泥顔、
前か後ろか判別に迷う顔がズラリ……である。
山での生活を滲ませた彼等には
天国に勝る兵舎である。
一室に五名……どんどん汚れる。
笑顔は泥にまみれて汚いことこの上ない。
目だけは澄んでいたが、
洗ったことのない身体は臭い。
口は泥水で漱ぐのか、
ニタッと笑う歯と歯の間に泥が覗く。
が、屋根があるので
若い兵隊さんの声は弾んでいた。
結果、私達は家を失くした。
 共同生活となった事務所は、
終戦の日に焼いた帳簿もろとも
何もなかったが、
ガランとなった書棚を見て
起ち上がったのは私。
母が買い溜めしていた医薬品のもろもろに
アイデアを得た。
母の看護のためにと医師から学んだ熱湯消毒、
注射の要点などなど……
薬品の効用はそれなりに身についていた。
私の手による注射は痛くない、
と母は自信をつけて励ましてくれたものだ。
一室を診察に、
白い割烹着に胸を張る偽医者登場となった。
またたく間に、押すな押すなの医局となった。
消毒するだけで快方に向かう。
痛みには痛み止め一発で効果が出る。
患部を清潔に保つのみで、
若さと薬で目覚めた部位は元気になった。
私は人気のある名医と尊敬される。
父を頼る人達は、洗濯、炊事と頑張った。
お金より食糧を……との要求は文句なし。
八路軍撤退までの約ニカ月、
明日への不安は小休止になった。


 難民の不安な生活の中、
ごく僅かな人以外は、
皆、懸命に生きたのだ。


Photo
 葫蘆島の「日本僑俘遣返之地」記念碑

 日本人自身がかつて
難民であったのだということを忘れたら、
大災害、大失政、戦争のいずれかによって
再び、難民になるかもしれない。

*引用・参考書
① 錦州会編『最後の満州 錦州終戦前後』
                    1979年
② 木島三千男編『満州 1945年』
               原書房 1986年
③ 渡部菊江著『再見』 自費出版 2012年
               

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